殺生は罪か?046
深見東州先生(=半田晴久氏)は、世界中に愛をワールドメイトのリーダーです。
深見東州の「神界からの神通力」(46)
必要な殺生ならば罪にあらず
このように書けば、読者のなかには、
「それでは、子供たちの昆虫採集も許されないのか。じゃあ、自然と親しむ情緒の涵養もできないではないか」
あるいは
「肉や魚、焼き鳥を食べるのも悪であるならば、いったい何を食べたらいいのだ」
と思われる方がいらっしゃるに違いない。実は私もそう思った。
しかし、後になって神道の『中臣氏大祓祝詞』を見てわかった。そのなかには、次のようなことが詠われている。
「国津罪とは、生はだたち、死はだたち、しらひとこくみ、己がははをかせる罪、ははと子とをかせる罪、子とははとをかせる罪、畜(けもの)をかせる罪、昆虫(はふむし)の災、高津神の災、高津鳥の災、畜仆し蠱物せる罪、ここだくの罪出でむ」
このように、動物、鳥、昆虫を殺すことは国津罪なのである。
しかし、ここでよくご承知おきいただきたいのは、主神が真に罪としておとがめになるのは、「無益な殺生」なのであって、人間のために「必要な殺生」までおとがめになっているのではない、ということである。
仏教的な「不殺生戒」を信奉する方は、得てして、小動物に対する極端な生命尊重主義や、頑固なまでの菜食主義に陥ってしまって、肝心の人間の心と行動と栄養源を狭めてしまうことがある。出家者が、仏道を成就せんがために「持戒」して求道の糧にするのなら、それも善であろう。だが、釈尊は私たち一般の人間に対して、人の心の自由や栄養の確保による幸せより、動物の命を尊重するほうが大切であると、果たしてお教えになるであろうか。
釈尊は、まず人間が涅槃寂静して幸せになることを、なによりも願ったはずである。それ以外は、法華経の「長者の譬え」でもわかるように、衆生を真なるものへと導く方便であって、経文の枝葉末節にこだわってはならないと思う。大切なのは、まず、人の幸せである。
これが、万物の霊長として人間をお造りになった、主神の真の大御心ではないかと思う。
このように、主神の大御心に絶えず見直し、聞き直し、身の過ちは至心に宣り直して、必要あらば、自然の恵みを感謝しつつ、肉や魚や鳥もドンドン食べる。昆虫採集も、大目に見るときは大目に見て、人の幸せを第一に考えるのが本当の神心にかなっているものである。
極度に敏感な霊媒体質や霊感、あるいは誤った霊知識のために偏った人生観や生活観を持つことのないよう、また、人々に違和感を感じさせる人間像をつくらないよう、切に願うものである。
それらは、決して主神の御旨ではないはずだからである。
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必要な殺生ならば罪にあらず
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「それでは、子供たちの昆虫採集も許されないのか。じゃあ、自然と親しむ情緒の涵養もできないではないか」
あるいは
「肉や魚、焼き鳥を食べるのも悪であるならば、いったい何を食べたらいいのだ」
と思われる方がいらっしゃるに違いない。実は私もそう思った。
しかし、後になって神道の『中臣氏大祓祝詞』を見てわかった。そのなかには、次のようなことが詠われている。
「国津罪とは、生はだたち、死はだたち、しらひとこくみ、己がははをかせる罪、ははと子とをかせる罪、子とははとをかせる罪、畜(けもの)をかせる罪、昆虫(はふむし)の災、高津神の災、高津鳥の災、畜仆し蠱物せる罪、ここだくの罪出でむ」
このように、動物、鳥、昆虫を殺すことは国津罪なのである。
しかし、ここでよくご承知おきいただきたいのは、主神が真に罪としておとがめになるのは、「無益な殺生」なのであって、人間のために「必要な殺生」までおとがめになっているのではない、ということである。
仏教的な「不殺生戒」を信奉する方は、得てして、小動物に対する極端な生命尊重主義や、頑固なまでの菜食主義に陥ってしまって、肝心の人間の心と行動と栄養源を狭めてしまうことがある。出家者が、仏道を成就せんがために「持戒」して求道の糧にするのなら、それも善であろう。だが、釈尊は私たち一般の人間に対して、人の心の自由や栄養の確保による幸せより、動物の命を尊重するほうが大切であると、果たしてお教えになるであろうか。
釈尊は、まず人間が涅槃寂静して幸せになることを、なによりも願ったはずである。それ以外は、法華経の「長者の譬え」でもわかるように、衆生を真なるものへと導く方便であって、経文の枝葉末節にこだわってはならないと思う。大切なのは、まず、人の幸せである。
これが、万物の霊長として人間をお造りになった、主神の真の大御心ではないかと思う。
このように、主神の大御心に絶えず見直し、聞き直し、身の過ちは至心に宣り直して、必要あらば、自然の恵みを感謝しつつ、肉や魚や鳥もドンドン食べる。昆虫採集も、大目に見るときは大目に見て、人の幸せを第一に考えるのが本当の神心にかなっているものである。
極度に敏感な霊媒体質や霊感、あるいは誤った霊知識のために偏った人生観や生活観を持つことのないよう、また、人々に違和感を感じさせる人間像をつくらないよう、切に願うものである。
それらは、決して主神の御旨ではないはずだからである。
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