人間の本質117
深見東州先生(=半田晴久氏)は、世界中に愛をワールドメイトのリーダーです。
このブログでは、ワールドメイトのリーダーである深見東州先生の「大除霊」を紹介しています。人間の本質とは何か、悪霊、除霊、カルマ、水子供養、因縁などについて解説しています。
深見東州の「大除霊」(1)
第一章 念とは何か
この世には、さまざまな霊が存在するといわれる。通常、霊は、人間の肉体のように目で見て確かめることができないために、さまざまな説が入り乱れている。本書は、除霊についてわかりやすく解説しようというものであるが、霊そのものを正しく理解していなければ、除霊という行為も誤った方向に向かいかねない。そこで、まず、霊とは何かを考えてみたい。
霊とは、肉体の内、外に存在すると考えられる精神的実体と定義づけられている。これでは何のことかわからないが、人間とは肉体と霊とが一体化して存在するものであり、仮に霊が肉体から離れると、たとえば肉体が生命活動を行っていたにしろ、人間とはいわない。いわゆる生物ということはできてもそれ以上の存在ではないのだ。
とすれば、人間の人間たる所以は霊にあるということになる。
人間の存在する所以とは何か。想念を抱くことだ。フランスの哲学者デカルトは、「コギト・エルゴ・スム」=「我思う故に我あり」といったが、想念の中身はともかく、思う、考えることを絶対的基準に置いた。つまり、思う=念を抱くことが人間の証明といってよい。
ところが思うのは人間だけではない。植物は植物なりに、動物は動物なりにいろいろと意識があり、思うのである。ペットを飼ったことのある人なら、このことはよくおわかりになるだろう。その思いの中に、芸術観があり、学問観があり、信仰観があってこそ、はじめて人間としての思いとなるのである。
一言でいうならば、思いの中に文化があるといってよいだろう。
この文化という高度な思いの部分こそが、実は神魂といわれるものであり、私たち人間の、霊体に住む神なるところなのである。それだから、芸術観もなく、学問観もなく、信仰観もない人間とは、人間の皮をかぶった獣であるといえる。それで、そういう類の人間は、死ねば必ず畜生道に落ちることとなる。万物の霊長たる資格がないからだ。ここが、デカルトが説かなかったところであり、人間理解というものを、神霊界の存在を無視し、有形世界のみでとらえたあやまちなのであった。
以上のことを整理すると、「人間の本質とは高級なる霊であり、人間であることを証明するのは、文化的な念を出すことができることである」ということになる。
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この世には、さまざまな霊が存在するといわれる。通常、霊は、人間の肉体のように目で見て確かめることができないために、さまざまな説が入り乱れている。本書は、除霊についてわかりやすく解説しようというものであるが、霊そのものを正しく理解していなければ、除霊という行為も誤った方向に向かいかねない。そこで、まず、霊とは何かを考えてみたい。
霊とは、肉体の内、外に存在すると考えられる精神的実体と定義づけられている。これでは何のことかわからないが、人間とは肉体と霊とが一体化して存在するものであり、仮に霊が肉体から離れると、たとえば肉体が生命活動を行っていたにしろ、人間とはいわない。いわゆる生物ということはできてもそれ以上の存在ではないのだ。
とすれば、人間の人間たる所以は霊にあるということになる。
人間の存在する所以とは何か。想念を抱くことだ。フランスの哲学者デカルトは、「コギト・エルゴ・スム」=「我思う故に我あり」といったが、想念の中身はともかく、思う、考えることを絶対的基準に置いた。つまり、思う=念を抱くことが人間の証明といってよい。
ところが思うのは人間だけではない。植物は植物なりに、動物は動物なりにいろいろと意識があり、思うのである。ペットを飼ったことのある人なら、このことはよくおわかりになるだろう。その思いの中に、芸術観があり、学問観があり、信仰観があってこそ、はじめて人間としての思いとなるのである。
一言でいうならば、思いの中に文化があるといってよいだろう。
この文化という高度な思いの部分こそが、実は神魂といわれるものであり、私たち人間の、霊体に住む神なるところなのである。それだから、芸術観もなく、学問観もなく、信仰観もない人間とは、人間の皮をかぶった獣であるといえる。それで、そういう類の人間は、死ねば必ず畜生道に落ちることとなる。万物の霊長たる資格がないからだ。ここが、デカルトが説かなかったところであり、人間理解というものを、神霊界の存在を無視し、有形世界のみでとらえたあやまちなのであった。
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