三途の川、一途の川1496

ワールドメイトは、深見東州先生(=半田晴久氏)が教祖の宗教法人です。

このブログでは、ワールドメイトのリーダーである深見東州先生の「吾輩は霊である」を紹介しています。運の強弱について、自力と他力、運・不運の分かれ目、などが解説されています。

深見東州の「吾輩は霊である」(99)

 ところで、三途の川というのは霊が上・中・下の三段階に振り分けされる川で有名だが、他に、一途の川というのもある。

 これは即地獄か、即天国かの一本の道しかないような人が渡る川で、これを一途の川という。もうお前には選択する余地はない、お前はこれしかないということで、極悪の者、極善の者は一途の川に行く。

 それ以外の大多数の人々は三途の川を渡り、行くべき霊界を振り分けられて天国(=上)・中有(=中)・地獄(下)と大きく三つの層の世界に行くことになる。

 天国は気持ちいいし、中有界の上段もなかなかいい世界だ。ここに住む霊たちにとっては、供養など全く必要ない。

 だから真ん中のレベル以上の霊にしてみると、仏壇などあってもなくても平気なのだ。無論、人の体にかかることもない。もし万一かかっても、かかられた人はとても心地良いだけだ。

「あら、守護霊様かしら。守護霊……、ふだんの守護霊よりも、何となく、高貴な感じだな。えっ、この間亡くなったおばあちゃんなの。そう。生前、世の為人の為に生きて、立派に修業を済ませていたのね」

 と、こんな場合はお互い幸せなだけだ。仏壇や位牌にかかっても、ああ、おばあちゃん、お元気ですか、と言うだけで充分。子孫がお供え物をする気持ちを受け取って、霊も嬉しいわけだ。これは非常に好ましい姿であって、それから三十年も経つと、用事のない時にはおばあちゃんも来ない。そして自分の霊界修業をする。

(つづく)

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般若心経の功罪1497

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深見東州の「吾輩は霊である」(100)

 しかし、成道して、菩薩の位や如来の位をいただけるような霊的ランクを、生きている間に会得した人はまた違う。伝教大師や弘法大師などがそうだ。

 彼らは自由自在に、守護霊として霊界を動き回ることができる。親戚縁者はもとより、比叡山や高野山で修業する人や、世の為に生きようとする人たちに、血縁血脈に関係なく、自由自在に神様の使者となって守護できる。こういう方々には仏壇も全く関係ない。供養も全く必要ない。心地良い霊界にいて、自分で自由に動けるから心配することはない。

 つまり仏壇を祀って供養したいという遺族や子孫の心根は尊いけれど、霊にしてみれば祀ってもらう必要は特にはないわけだ。


下等な霊の祀り方 ― 般若心経の功罪

 問題は、真ん中以下の霊だ。特に、一途の川のどん底とか、地獄の三丁目から二丁目あたりのたばこ屋さんや、一杯飲み屋でウロウロしているような先祖霊が問題となる。

 こういう霊は、三回忌、七回忌、十三回忌など、この世に来てもいいですよという時には、待ってましたとばかりに、地上の子孫のあっちに食らいつき、こっちに食らいつきする。そういう霊がいる場合が大変なのだ。

(つづく)

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恐怖の般若心経1498

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深見東州の「吾輩は霊である」(101)

 年供養の後に、家族が病気をして死んだとか、三回忌の後からどうも調子がおかしくて、家の中がゴタゴタしているというのは、そんな不成仏の先祖霊たちの影響と考えてほぼ間違いない。

 例えばどんな祟りの霊かというと、

「深見先生の本を読んでみたら」

 というのに、嫌だと言って、ずっと財テクばかりやって死んだというおじいちゃんだったりする。

 そのおじいちゃんが問題だ。三十三回忌はもとより、仏壇でお祀りしても、とにかく喜び勇んで現れる。特に、仏壇で般若心経などあげようものなら、大変なことになるのだ。


般若心経は霊にとって気持ちいい

 私はこれを恐怖の般若心経と呼んでいるが、この恐ろしさを知らない人が多過ぎる。

 世の中には、何でもかんでも般若心経をあげればいいと思っている人が実に多い。確かに般若心経をあげると、霊的に見たら金色の光がピカピカ光っている。

(つづく)

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普通の人は霊に憑かれるだけ1499

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深見東州の「吾輩は霊である」(102)

 また、真言密教でも般若心経をあげるが、これは密教の修業の一つで、仏様とか如来様、権現様の法力を授かるためにあげるものだ。基本的に、いい霊が来て、般若心経をあげる場合には、それがそのまま法力になる。だから、私のところでも救霊では般若心経をあげたりする。

 さて、問題なのは、仏壇であげる般若心経である。般若心経をあげてもらうと、霊は気持ちが良い。だから、前述のおじいちゃんのような、悟りが足りない霊に向かって、もし仏壇やお墓で般若心経をあげようものなら、

「あっ、気持ちいい。やってちょうだい、やってちょうだい」

 とあたかも猫が喉をゴロゴロ鳴らすように喜ぶ。それで、気持ちがいいものだからこちらにすり寄ってくる。

 寄ってきた霊を救済する法力や霊力があるなら、あるいは説得するだけの力があれば大丈夫なのだが、普通の人は霊に憑かれるだけである。

「あっちへ行きなさい」

 と言っても、やってやって、もっとやってとワガママを言って離れようとしない。

 こうして霊は、本来この世と別れて本格的に霊界で修業を始める時期になっても、供養してくれる縁者から離れられずに、地上界をさまよってしまうことになる。こういう場合が少なくないので、このおじいちゃんのような成仏していない霊を抱えている人には、私は般若心経はあげないように、と言うことにしている。

(つづく)

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恐怖の般若心経で浮遊霊のデパートに1500

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深見東州の「吾輩は霊である」(103)

恐怖の般若心経で浮遊霊のデパートに

 本来、極めてありがたい般若心経だが、霊界法則を知らないであげたがために、とんだ目にあった人の話をしよう。

 お墓で無縁仏さんをお祀りして、般若心経をあげるという人がり、私のところへ救霊を受けにいらしたことがある。

「先生、もう体が動かなくなって」

 と言う。一見したところ

「おやっ、この人は動く浮遊霊だ」

 という感じ。まだ五〇代なのに、見たところ八〇代の人に見える。歩く姿も顔も、本当に私が霊界で見る浮遊霊そっくりなのである。ところが救霊をしたら、途端に普通の顔になった。この人は○○会という会に所属していて、そこは、無縁仏をお祀りすると功徳が積めると教えるのである。なんということか!無知というのは恐ろしいことだ。

 自分のお墓だけでは足りず、無縁仏までもお祀りする。それで功徳が積めるとは……、それを信じて、無縁仏の所ばかりに行って、般若心経をあげるわけだ。それで、

「ありがとうございました」

 と無縁仏にお礼を言うという。何がありがとうかいえば、浮遊霊をいっぱいいただきまして、ありがとうございました、と言っていることになる。

 この人は、体中が浮遊霊のデパートのようになっていた。これを恐怖の般若心経と言わずして、何と言おうか。

(つづく)

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もっとやって、もっとやってよ1501

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深見東州の「吾輩は霊である」(104)

般若心経にまとわりつく霊はしつこい

 こういう霊は子供と同じだ。子供とちょっとお遊びしてやると、楽しいものだからまた寄ってくる。

「もう終わり?おじちゃん、もう終わり?おじちゃん、おじちゃん、もっと遊んでよ」

 とまとわりつく。

「私は用事があって忙しいからダメ」

 と言っても、

「おじちゃん、もっとやって」

 とくる。

「あっちへ行きなさい。あっちへ行きなさいったら、行きなさい」

「おじちゃん、もっとやって。今のおもしろい。これ、もっとやってよ、キャンデーちょうだいよ~!」

 としつこい。

(つづく)

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般若心経とは何か1502

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深見東州の「吾輩は霊である」(105)

 子供の実態を見るにつけ、浮遊霊に似ているなと私はため息をついてしまった。

「子供浮遊霊論」などというと、幼稚園からクレームが来るかもしれないが、とにかく、子供のお遊びのようなものだ。聞き分けのいい子というのは高級霊といっしょで少ない。子供であれば

「坊や、おじちゃんはね、誘拐犯なんだよ。誘拐されちゃうぞー」

 というふうに言って聞かれば離れるかもしれない。浮遊霊であれば、意志が強くてこわそうな人には寄りつかないから、この点でも子供とよく似ているかもしれない。

 それはともかく、仏壇やお墓で般若心経をあげると、今述べたように霊がやってくる。払いのけたり、言って聞かせたりできない普通の人たちが般若心経をあげるということは、霊界の実情を考えると非常に問題が多いと言える。

 誤解しないでもらいたいが、般若心経そのものは、数ある仏典の教えの中でも、最も意義深いお経の一つである。決して低いレベルの霊を手なずけるためのおまじないではない。

 それでは、般若心経は何かというと、要するに、お釈迦様の諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、それから世間一切皆苦、これらが詰まっているものなのだ。

(つづく)

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仏様の教えを三法印という1503

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深見東州の「吾輩は霊である」(106)

 仏様の教えを三法印という。大きく広く言えば大蔵法典、小さく要約して言うと三法印、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静が仏教の3大ポイントなのだ。

 般若心経の核心は、現世で見たり聞いたりしたものは全て無い、無いということも何も無いぐらい無いんだ、ということである。だから、この此の岸のことをいつまでも思わないで、彼の岸に渡りなさい、執着心をなくしなさい、もっと軽やかな心になりなさい、と死者の霊に諭す教えなのである。

 ところで、極楽浄土へ行くための3大ポイントはというと、

 まず第一に、慈悲の心を持って、温かい性質である。

 第二に、前向きで、執着心を捨てて、軽やかな振る舞いを心がけている。

 第三に、何事にも感謝の心を忘れず、いつも明るい。だから極楽浄土に行く。

 現世に執着心が何もなく、死んだら死んだで非常に心が軽い。軽いから上へ上へと上がっていく。このようにいかにすれば心軽やかになるかという点を解説したのが般若心経である。

 つまりこの3大ポイントのうちの「軽く」という、一つのポイントを実践する意味を書いているのである。すなわち、般若心経に書かれている内容は、生きている人が、生きている間に理解して、形あるものに対する執着心をなくしていこう、と実践すべきものである。これこそが般若心経の正しい読み方であり、般若心経に向かう時の正しい姿勢であると言える。

(つづく)

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写経の持つ怖さ1504

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深見東州の「吾輩は霊である」(107)

般若心経写経でがんばったのに……女優Aさんの場合

 名前を言えば誰でも知っている女優のAさんは、神一筋で生きている人である。

 初めてお会いした時に、

「先生、私、般若心経を千回書こうと思って写経したんですよね。でも、どうしても続かなくて。私って持続力が無いんですね。五百五十回しか書けなかったんです」

 と言う。

「ほう、五百五十回」

 なかなかできないことだ。一日一つ書いても、一年で三百六十五回にしかならない。それを一年半の間、毎日彼女は書いていたのだ。なぜ書けなくなったかというと、強烈に体が重くなって、もう仕事もできないぐらいに重くなっちゃったので、ということである。恐怖の般若心経を一年半も書き続けていれば、やはりそうなるのである。

 確かに、自分の書いているお経の意味をわかって写経すれば、それは大変意義のあることだ。しかしそれであっても、真ん中以下のご先祖が多い人が写経をすると、どんどん霊が出てきて身動きができなくなってしまうのだ。これを「恐怖の写経」と言う。仏教系の某グループからは文句を言われるかもしれないが、確かにこういうことになる。

(つづく)

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中身を理解できていなければ意味がない1505

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深見東州の「吾輩は霊である」(108)

 写経は、写す文字も意味を持っているが、般若心経が何が言いたいのかということを咀嚼(そしゃく)しなければ意味がない。お経はあげるものではない、書くものではない、まして拝むものではない。内容を理解して、心の持っている内面性を覚醒する、悟りを開く、そして、お釈迦様が言いたかったことを納得することこそが大切なことなのだ。

 お経というのは、元々お釈迦様の生きた言葉を記録に残したものだ。お釈迦様が書いたものでなく、お弟子が、

「私はこういうふうにお釈迦様から聞きました」

 と書いたもの。

「如是我聞」-「このごとく、我、聞けり」なのだ。拝むための道具ではない。

 バイブルも同様でイエス自らが書いたものではない。

 イエス様はこうおっしゃっておられましたということを、マタイやルカが「このごとく、我、聞けり」と記録したのがバイブルだ。仏教の場合は、それが全部、お経として残っているのだ。そう考えたら、お経の本質や存在意義もわかる。お経は形ではなく、内容に接するのが本当で、これが基本なのだ。

(つづく)

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