ヨガ霊能蛇(2)063
ワールドメイトは、深見東州先生(=半田晴久氏)が教祖の宗教団体です。
このブログでは、ワールドメイトのリーダーである深見東州先生の「神界からの神通力」を紹介しています。正神界のこと、神界と霊界のこと、守護神と守護霊、生霊、水子、稲荷信仰、蛇の霊、などについて解説しています。
深見東州の「神界からの神通力」(63)
ヨガ霊界の主宰神・ヨガ霊能蛇(2)
この蛇は、必ずしも邪神界の蛇とはいえないが、人間の御魂の成長と死んだ後のことを考えると、ヨガ霊界に入るのはあまり感心できない。否、危険であるといわざるを得ない。人格神との心の交流なくしては、死後、人格のある高い霊的存在たりうることは難しいからである。
なぜなら、ひとたびヨガ霊界に入ってしまうと、その次元で御魂の成長がストップしてしまうからである。ヨガは修業を積むと、霊能が開けるかもしれない。集中力がつき強靱な肉体ができるかもしれない。あるいはまた、悟りの境地を感じることができるかもしれない。
しかし、その霊能は本当の正神界から直接来るものではないし、その悟りは人間としての正しい精進、努力を重ねた結果得られた心即理、あるいは小我を捨てて大我を得た真如の我でもなく、道心と無欲によって悟りを得た御魂の覚醒でもない。あくまでも、行力、行法の特殊世界を追求して得た、一時的恍惚状態であり、人間としての誠の道に則って得た悟りの世界ではない。釈尊が出現する前のバラモン行者たちの悟りの世界であるといえよう。
このようにいえば、
「釈尊も、もとはといえば、われわれと同じようなヨガ行者の一人であった。彼もヨガの修業を積み重ねて、あのような偉大な人物になったのだ。われわれもこれにならって、その原点を行じているだけのことだ」
と、反論されるかもしれない。
しかし、それならばなぜ釈尊は、
「極端な難行苦行をいくら積んでも、本当の悟りは開けない」
と、自分自身がヨガ行者に偏していたことを後悔し、反省したのであろうか。
さらに言うならば、ヨガ修業をしている人々は、
「生き死にを越えた永遠の真理を知りたい」
と釈尊が願ったのと同じくらい切実に願って、真理探究の行をしているであろうか。
「行力を得たい、霊能を得たい。霊智、霊力、霊感を得て、神秘をわがものとしたい」
と願っているのがほとんどではなかろうか。これらはすべて、我欲と功名心の一種であるといえよう。
釈尊は、地位、名誉、財産、家族までも捨てて真理を体得しようとしたが、巷のヨガ行者たちは、釈尊ほど純一無雑な精神に基づいているわけではない。地位、名誉、財産を捨てようにも、はじめからない人がほとんどなのである。逆に、その見せ物的な曲技や霊能で、地位、財産、名誉、金銭を得ようとしているのが実情である。
このように、すべてが釈尊のように、高貴な内面からの発露によって行じているわけではないのである。
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深見東州の「神界からの神通力」(63)
ヨガ霊界の主宰神・ヨガ霊能蛇(2)
この蛇は、必ずしも邪神界の蛇とはいえないが、人間の御魂の成長と死んだ後のことを考えると、ヨガ霊界に入るのはあまり感心できない。否、危険であるといわざるを得ない。人格神との心の交流なくしては、死後、人格のある高い霊的存在たりうることは難しいからである。
なぜなら、ひとたびヨガ霊界に入ってしまうと、その次元で御魂の成長がストップしてしまうからである。ヨガは修業を積むと、霊能が開けるかもしれない。集中力がつき強靱な肉体ができるかもしれない。あるいはまた、悟りの境地を感じることができるかもしれない。
しかし、その霊能は本当の正神界から直接来るものではないし、その悟りは人間としての正しい精進、努力を重ねた結果得られた心即理、あるいは小我を捨てて大我を得た真如の我でもなく、道心と無欲によって悟りを得た御魂の覚醒でもない。あくまでも、行力、行法の特殊世界を追求して得た、一時的恍惚状態であり、人間としての誠の道に則って得た悟りの世界ではない。釈尊が出現する前のバラモン行者たちの悟りの世界であるといえよう。
このようにいえば、
「釈尊も、もとはといえば、われわれと同じようなヨガ行者の一人であった。彼もヨガの修業を積み重ねて、あのような偉大な人物になったのだ。われわれもこれにならって、その原点を行じているだけのことだ」
と、反論されるかもしれない。
しかし、それならばなぜ釈尊は、
「極端な難行苦行をいくら積んでも、本当の悟りは開けない」
と、自分自身がヨガ行者に偏していたことを後悔し、反省したのであろうか。
さらに言うならば、ヨガ修業をしている人々は、
「生き死にを越えた永遠の真理を知りたい」
と釈尊が願ったのと同じくらい切実に願って、真理探究の行をしているであろうか。
「行力を得たい、霊能を得たい。霊智、霊力、霊感を得て、神秘をわがものとしたい」
と願っているのがほとんどではなかろうか。これらはすべて、我欲と功名心の一種であるといえよう。
釈尊は、地位、名誉、財産、家族までも捨てて真理を体得しようとしたが、巷のヨガ行者たちは、釈尊ほど純一無雑な精神に基づいているわけではない。地位、名誉、財産を捨てようにも、はじめからない人がほとんどなのである。逆に、その見せ物的な曲技や霊能で、地位、財産、名誉、金銭を得ようとしているのが実情である。
このように、すべてが釈尊のように、高貴な内面からの発露によって行じているわけではないのである。
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