今度は元に篤く復る629
ワールドメイトは、深見東州先生(=半田晴久氏)が教祖の宗教法人です。
このブログでは、ワールドメイトのリーダーである深見東州先生の「大創運」を紹介しています。徳について、才能、守護霊、カルマなどについて、解説しています。
深見東州の「大創運」(45)
「ふとした思い」ということについては、他の箇所でもたびたび述べているが、「おかしい」と直感したなら、時間的に良かった状態に即戻ることができれば、誤りによって受ける損害はきわめて微少なものになるはずである。
このレベルの修業を積むことができたならば、次に「篤く復る」という段階になる。「篤く」とは「繁く」が極まって、帰り方の回数から、帰る時の速度や確実性が加わっている状態である。そして、いよいよ究極の段階に入る。
「至善にとどまる」という儒教の言葉がそれである。つまり、何を行っても元から出ない、中心から逸脱しないということである。『論語』の「欲する所に従えどもこれ矩を踰えず」ということも「至善にとどまる」であり、『中庸』の「中」にあたるというのも「至善にとどまる」である。至善とは何か。これ以上の善はないという状態である。
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「至善にとどまる」という儒教の言葉がそれである。つまり、何を行っても元から出ない、中心から逸脱しないということである。『論語』の「欲する所に従えどもこれ矩を踰えず」ということも「至善にとどまる」であり、『中庸』の「中」にあたるというのも「至善にとどまる」である。至善とは何か。これ以上の善はないという状態である。
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